チベットについて
チベット人やチベット系民族の住むエリアはかなり広大です。中国の行政区分でいうと、チベット自治区、青海省、四川省、甘粛省、雲南省にわたって彼らは住んでいます。それら以外にネパールやインドのヒマラヤの山岳部、そしてブータンも含まれます。
チベット人について
チベット人の起源については諸説ありますが、こんな興味深いルーツがあります。大昔、大きな湖ができてその後、それが大森林地帯にかわり、そこで雄猿と岩窟に住んでいた羅刹女が出会って、六人の子供が生まれたそうです。これがチベット人の始まりと言われています。その雄猿は観音菩薩の、羅刹女はターラー菩薩の化身と信じられていて、そのあたりは敬虔な仏教徒であるチベット人らしい特徴がうかがえます。また、私たち日本人には赤ちゃんの頃、お尻などに蒙古斑という青いあざが出ることが多く見られますが、チベット人の赤ちゃんにもよく蒙古斑が見られます。このことを彼らに話すと同胞意識を持ってとても喜んでくれます。私たちも彼らも同じモンゴロイド、大昔にさかのぼれば、同じ民族だったのでしょう。
彼らは私たちと顔立ちがよく似ています。そして同じ仏教徒でもあり、親近感をおぼえますが、外見と中身は似ても似つかぬものです。ものの考え方や価値観などは私たちと比べるとかなり相違があります。
仏教徒たる者は生きとし生けるものすべてに愛情と慈悲の眼差しを向けるのは当然という徹底した考え方を持っています。特に小さい動物や昆虫などにはとりわけ注意を払います。例えばアリが行列をなして廊下などを横切っていると、そこを通りかかる者へ注意を促すために目印をつけておきます。ネズミ捕りに引っかかったネズミも殺さずに遠くへ逃がしてあげます。チベットにはこんなことわざがあります。「人と馬と犬の心は同じ」。動物好きの、慈悲と愛情に満ちた彼らの様子がそこからよくわかります。
チベットの宗教について
1ボン教
チベットにはインドから仏教が伝来する前から信仰されているボン教という宗教があります。ボン教はシャーマニズムを中心とした民間信仰と言われていますが、仏教がチベットに伝来してからは仏教の影響を受けて仏教的要素の濃いものになっています。ボン教徒であるか否かは聖地へ行けば、すぐにわかります。彼らは聖地を仏教徒のように時計回りの右回りではなく、左回りに歩いて礼拝します。逆にチベット仏教がボン教の風習や習慣を取り入れたものもあります。例えば、ルンタという五色の祈りの旗はもとはボン教から来ているという説があります。ボン教の開祖はシェンラプ・ミウォと呼ばれる方で、一説によるとブッダ(釈尊)と同時代に西チベットの今のンガリ地区にあったシャンシュン地方のオルモルンリンにご生誕なさったという話があります。教義は仏教と多少の差異はありますが、例えば根本的な諸行無常だとか、空性、中観というようなところはほとんど共通していて、ボン教の学僧が仏教の学問寺で勉学するということは今でも行われているそうです。ダライ・ラマ猊下は仏教が伝来する前からあるボン教をチベットの伝統的な宗教の一つとして評価をなさっておられます。
2チベット仏教
⑴歴史
日本の仏教史と比較しつつ説明します。
チベットに仏教がいつ頃伝わったのかは定かではありませんが、チベット王朝(吐蕃)第三十三代の王であるソンツェンガムポ王が王位に就いていたころではないかといわれています。その妃、文成公主(唐王朝の皇女)が中国から嫁いできたのを機に、当時の都であったラサにラモチェ寺が建立されました。それは七世紀の半ばのころです。日本書記によると日本には五五二年に仏教公伝と記されていますから、チベットにはそれから約一〇〇年近く遅れて仏教が伝わったことになります。ソンツェンガムポ王が亡くなった年にラサの中心にトゥルナン寺(大昭寺)が建てられます。チベット人にとって心の拠り所のような大変有名なお寺です。日本の東大寺の大仏の開眼供養が行われた翌々年に即位した第三十八代のティソンデツェン王は七六一年に仏教を国教にすることを決め、七七九年にサムイェー寺にて初の僧伽を結成させます。チベットの歴史上最も「法王」という名にふさわしい王様です。その九年後には日本では延暦寺が建立されました。そしてティソンデツェン王はそのサムイェー寺にて中国僧の摩訶衍(まかえん)とインド僧カマラシーラを論争させ、カマラシーラが勝って当時中国の禅宗系仏教とインドのタントラ系仏教が対立していたのに終止符をうたせました。もし、この時インド側が勝つことがなかったら、今まで連綿と続くチベット密教は存在していないといえるほどの大きな出来事、これを「サムイェーの宗論」といいます。七九四年の出来事です。チベット王朝第四十二(あるいは四十三)代の王、ティダルマウドゥンツェン(通称ランダルマ)王は八四一年に即位しますが、この王の時代に仏教の弾圧が行われ、その後二百年近くインドから高僧アティーシャがチベットに招かれるまで、チベット仏教は暗黒の時代へと入ります。チベット西部のンガリ地区のグゲの王、イェシェオウとチャンチュプオウは当時名声が高かったインドのヴィクラマシラー寺の座主をつとめたアティーシャをチベットへ招聘します。一〇四二年にアティーシャは西チベットのグゲに入ります。日本ではその十年後に藤原頼通(ふじわらのよりみち)によって平等院が建立されています。アティーシャはチベット仏教の復興に力を尽くしたことでとても有名です。このアティーシャの指導のもとにカダムという宗派が生まれたのが一〇五六年のことです。その十七年後に氏族集団の長であったクンチョク・ギャルポが一つのお寺を建立してできた宗派がサキャ派です。一一二一年には訳経官であるマルパがカギュ派という宗派を起こします。インドで仏教が滅亡した翌年一二〇四年にナーランダー寺最後の僧院長であったシャーキャシュリーバドラはチベットに招かれ、約十年間滞在し、インド仏教最後の伝統を伝えました。この点はチベット人は非常に誇りに思っています。その後、チベットはモンゴルとの関係を深めていき、サキャ派のパクパは元の皇帝フビライ・ハンの帝師となります。その他カギュ派、後述するゲルク派もモンゴルの皇帝とこぞって関係を深めてゆきました。日本で金閣寺が造営されて間もない頃、一四〇九年にゲルク派の開祖ツォンカパは、ラサの郊外にガンデン寺を建立します。ゲルク派はカダム派を吸収し、カギュ派にならって転生活仏の制度を導入してダライラマを誕生させました。ダライラマ五世の頃にチベットを統一し、いわゆるダライラマ政権が発足しました。その頃、日本では鎖国令が発布されたばかりの時代でした。歴代ダライラマの住居であるポタラ宮はダライラマ五世が遷化した十二年後に完成しています。そして二百年ほど経った十九世紀の後半、時のダライラマ十三世は比丘戒を受戒して政権を握りますが、イギリスや中国の清朝から進攻され、モンゴルやインドへ一時亡命するなど多難な生涯を送られましたが、ダライラマとしては初めて日本人と親交を深めた方でした。十九世紀末には河口慧海がチベット大蔵経を求めてチベットへと出発。ラサのセラ寺では医者としても活躍。日本人として初めてダライラマに謁見した方でした。二十世紀に入って多田等観はインドに一時亡命していたダライラマ十三世に謁見。その縁もあって一九一三年にラサのセラ寺に入門し、十年にもわたって勉学されました。ダライラマ十四世も先代の十三世以上に日本との関係を深められているのはご存知のことかと思われます。
⑵トゥルク(転生活仏)について
チベット仏教の特色の一つである転生活仏のことについて説明します。転生活仏をチベット語ではトゥルク、あるいはヤンスィといいます。トゥルクとは化身を意味し、ヤンスィとは再びこの世に現れる者という意味です。つまり転生活仏は衆生を輪廻から救うために何度も姿を変えてこの世に現れる者のことをいいます。転生活仏といえば、先述したダライラマが有名ですが、この制度を最初に始めたのはカギュ派のひとつ、カルマカギュ派といわれています。今から八百年ほど前にカルマ・パクシという高僧がチベット仏教史上初めて活仏と認められた方です。その歴代の活仏をカルマパと呼び、現在は十七世まで数えられています。ダライラマは現在十四世ですが、ダライラマの制度は第三世から始まりました。ダライラマ一世と二世は遷化された後にダライラマであったと追認されたものです。ダライラマの称号は当時のモンゴルの実力者であったアルタン・ハーンがソナム・ギャツォという高僧に贈ったのが始まりといわれています。最初の頃は先代に対して転生活仏は一人だけ選ばれる場合がほとんどでしたが、後になって三者、五者と選ばれることが出てきました。三者の場合は先代の身口意を、五者の場合は身口意の上に功徳と功績をそれぞれ転生活仏として認めるものです。転生活仏を先代に対して複数選ぶのは、さらなる多くの指導者を切望する気持ちの表れではないかと思います。チベット仏教が海外に普及するにつれ、チベット人と欧米人の混血の活仏や、また両親ともチベット人以外の活仏も出てきています。昨今、チベット人社会では増える一方の転生活仏について、その不要論を唱える人もいて賛否両論ありますが、これだけ浸透していて根強い制度なので、まだまだ続いてゆくものと思われます。
⑶四大宗派
チベット仏教は主に大きく四つの宗派に分かれています。宗派が成立した順に説明します。
ニンマ派
ニンマとは「古い」という意味で四つの宗派の中で一番古い宗派です。開祖はインドの密教行者パドマサンバヴァ(蓮華生)という方です。教義の特長にゾクチェンというのがあります。ゾクチェンとは「大いなる完成」という意味で、有情全ての心性における本来の姿のことを指し、如来蔵思想に基づくものです。その本来の姿を理解することにより、速やかに覚醒の境地に至ることができるとされています。このニンマ派は四つの宗派の中でも在家修行者が多いことで知られています。
サキャ派
サキャとは灰白色の土地という意味です。開祖のクンチョク・ギャルポが吉祥の相をそなえている土地にお寺を建てたのですが、その土地がつやのある灰白色をしていたのに由来します。四つの宗派の中でこのサキャ派のみ座主は世襲制をとっています。この宗派の主な教義に「シェンパ・シタル」というのがあります。その意味は「四つの執着から離れる」ということです。仏法に心を向かわせ、悟りへ導くための基本的な教えです。すなわち、「今生に執着したら仏教徒ではない」、「三界に執着したら出離の心は生じない」、「自利に執着したら菩提心ではない」、「固執したら正しい見解は生じない」という四つを念頭において実践することです。
カギュ派
カギュとは口承(口伝)の系譜を受け継ぐという意味です。開祖はマルパという方で、インドの大学者であり、優れた修行者でもあったナローパから教えを授かりました。マルパの弟子にミラレパという行者でもあり、優れた詩人でもある方がいて、マルパとミラレパの師弟物語はチベット人なら誰でも知っている有名な物語です。この宗派は四つの宗派の中で最も行に重きをおきます。チベット仏教で行といえば山籠修行が主なものですが、他宗派では三年三ヶ月が一般的ですが、この宗派では、九年から十二年かけて行うことがあると言います。カギュ派ではマハームドラーという悟りの境地を目指します。マハームドラーとは「大いなる印」という意味で、究極的な成就のことをいいます。
ゲルク派
ゲルクとは善良の宗派という意味合いです。開祖はツォンカパという方です。ツォンカパはニンマ、サキャ、カギュといった他の三宗派の学僧から学んだ方ですが、密教の解釈を誤って修行していた当時の風潮を危惧し、戒律重視をもとに顕教と密教を見直して整理し、再構成して新しい宗派を立ち上げました。今でもチベット仏教の最大宗派で、強い勢力を持っています。カダム派の開祖アティーシャの流れをくむ「ラムリム」と「ガクリム」がこの宗派の主な教義です。「ラムリム」とは菩提道次第といって顕密共通の道を、「ガクリム」は密教の教えを説くものです。